![[江戸メシ クロニクル]江戸の人気食、うなぎの話](/files/cache/c0109f018567556bdfc8c32710451fec_f3053.jpg)
食の偏愛コラム
[江戸メシ クロニクル]江戸の人気食、うなぎの話
食や料理への「偏愛」を教えてもらうHolicClip。江戸の食文化を愛するクックパッドエンジニア・伊尾木さんによる人気コラム「江戸メシ クロニクル」です。今回は夏の風物詩とも言える「うなぎ」について語っていただきました。
前回の記事はこちら:https://foodclip.cookpad.com/8834/
気がつくと、この江戸記事を書き始めて一年が過ぎていた。数ヶ月に一回の執筆とはいえ、こんな好き放題書かせていただいて本当に感謝しかないし、これを読んでくださっているあなたにも最大限の感謝を送りたい。今後はさらに好き放題書いていこう。
さて、夏がやってくる。夏にまつわる江戸時代の食べ物は非常に多いが、今回は「うなぎ」を取り上げよう。土用の丑の日、夏バテ防止と、みんな大好きなあのうなぎだ。(この執筆時点ですでに暑い。もう夏バテしそうだ。誰か僕に夏バテ防止のナニかいいものを送ってくれないだろうか)
うなぎそのものは江戸時代よりもずっと前から食べられていたが、今のように大人気食になったのも、今のような食べ方になったのも江戸時代からだ。実は、うな丼は日本で最初の丼メニューでもある。
蒲焼き
うなぎと言えば、蒲焼き。蒲焼きと言えば、うなぎだ。蒲焼きの語源は諸説あるのだが(大概のことには諸説あるものだ)、うなぎを串に刺してそのまま焼いた姿が蒲の穂に似ているからだろうと言われている。
うなぎの蒲焼き/神代余波
ちなみに本物の蒲の穂はこちらだ。
なるほど。似ている。
ところが、江戸時代に入るとそのまま焼くのはイケてないと思われたのか、背、あるいは腹から開いて焼かれるようになる。しかし、蒲焼きという名前は残った。それだけうなぎ料理の定番だったということだろう。
ちなみに、こういう形状を表した名前だけが残って別物になるというのはたまにあって、現代なら「カップやきそば」がそうだ。カップやきそばは、油であげた麺をお湯で戻す。この工程に “焼き” は介在しない。つまり焼いていないそばだ。しかし、人は違和感なくそれを「やきそば」だと認識できる。まことに人間の認識力の柔軟さは素晴らしい。
うなぎ禁止令
うなぎは早々に江戸で人気の食材になったが、一度そのうなぎ食文化が断絶しかけたことがある。かの有名な生類憐れみの令だ。 このなかで「食べ物として魚鳥を生きたまま売買してはならぬ」とされ、うなぎとドジョウの商売が禁止された。 ドジョウはたしかに生きたまま買い、家で調理される(生きたまま酒につけてそのまま煮込む)のだが、うなぎはそうではない。 あなたもうなぎを生きたまま買っても、とても困ることになるだろう(あなたがその道でプロでなければ)。 おそらくは、うなぎを店先でさばいて売っていたのを、残酷だと思われたのかもしれない。 綱吉の気持ちもなんとなく分かる。
現在のコロナ禍での飲食店の縮小営業を見ても分かるように、当時の民衆にも影響があった。 だから、当然抜け道を探るものがでてくる。そのためこういうお触れがでた。
所々茶屋にて、あなごと名付け、うなぎかば焼致し商売候由相聞く。(中略)右之商売致し候ものこれ有り候はば、捕えさせ申すべき事(参考文献1より抜粋)
とあり、「あなご」だといって「うなぎ」を売っていたようだ。いつの時代も商魂たくましい。
この施策はほどなくして綱吉の死とともに消えたが、長い期間実施されていたら今のうな丼などはなかったかもしれない。
蒲焼き、付け飯、うなぎ飯、そしてうな丼へ
うなぎの蒲焼きが庶民に好まれていたが、では最初から今のうな丼が登場していたのかというと、そうでもない。そもそも、今のうな丼が登場するのは明治からだ。蒲焼きからうな丼に至るには何段階もの進化があった。
まず最初はうなぎの蒲焼きがそれ単体で食されていた。家で、おかずにもなっただろうが、店で食べるときは完全に酒のアテだった。
酒と共に蒲焼きを食べる人/江戸名所百人一首
この絵の中央で酒を片手に男が食べているのが蒲焼きだ。串のままかぶりついていて、その横でうなぎを焼いてくれている。 こんな風に蒲焼きで一杯っというのが、基本スタイルだった。
本題とは関係ないが、この絵は登場人物が皆同じ顔で実に稚拙なのだが、それがかえって味わいがある良い絵だ。 深川八幡への参りなので、皆笑顔なのが良い。
さて、ここでまず第一の進化が起きる。蒲焼きが売れるのは結構なのだが、基本は酒とともに、だ。 当時、女性も酒を飲むがやはり男性がメインだ。ということは、客は男性メインになってしまう。 もし、あなたが当時のうなぎ屋だったら、もっと売上を伸ばすにはどうするだろうか? そう、きっと客層を広げようと思うはずだし、当時のうなぎ屋もそう考えた。 女性や子供を取り込むために、うなぎ屋はご飯と一緒にうなぎを提供するようにしたのだ。 「え、そんな些細な工夫?」 と思われるかもしれないが、これが大ヒットだった。 当時はこのスタイルは「付け飯」と呼んでいたが、このおかげで江戸のうなぎ人気はまさにうなぎ登りだった。 当時の川柳では
団子よりうなぎのはやる浮世なり
とまで歌われている。
この奇跡の出会いは、しかし、それでもうなぎの横にご飯が登場したに過ぎない。これがいつしか一緒に合わさることになった。そのきっかけは大久保今助という堺町の芝居小屋のスポンサーだった人物だ。 今助の以前にも、うなぎとご飯を一緒にする料理は存在したが(当時のレシピ本、名飯部類に掲載されている) 一般に知らしめたのは今助だと言われている。
今助はうなぎが大好きで頻繁に芝居小屋に取り寄せていたが、あるとき、うなぎを飯の間に挟んだらうなぎが冷めないことに気づいた。これが世の中に「うなぎ飯」が広がる瞬間である。
これは現在ではあまり見ない食べ方だが、当時はこのスタイルもヒットしたのだ。 ご飯とタレの味がよく合うので、おいしいからヒットするのは当然なのだが、このスタイルは違うメリットがあった。
当時、蒲焼きは基本的には大きいうなぎを使うことが良しとされ「大蒲焼き」などと称された。 だから小さなうなぎの蒲焼きは人気がなかった。 これが、うなぎ飯に使えたのだ。うなぎがご飯の中に隠れているので、量は問題だが、一切れごとの大きさは気にならなくなった。店側としては、小さなうなぎも売れて嬉しいし、客側も大蒲焼きより安価にうなぎが食べられたのだ。
ちなみに、いくら位だったかというと、大蒲焼きは一串で200文、うなぎ飯は一杯100文だったと言われている(守貞漫稿 巻之六 生業)。毎度現在の感覚でいうのは難しいが、1文20円程度と思うと、大蒲焼き1串で4,000円、うなぎ飯は一杯2,000円程度だ。大蒲焼きは高すぎるが、うなぎ飯が手に届く範囲だったことが分かる。(大蒲焼きはこれに酒をつけるので、さらに金がかかる)
うなぎめし/新版御府内流行名物案内双六
とはいえ、まだこれが最終段階ではない。なにせうなぎはご飯の間に隠れていて、全然上に乗っていない。 江戸末期には丼という言葉は出てきたが、先のうなぎ飯のことを指していた(ちなみにこれが、日本初の丼料理だ)。 ではいつ、うなぎはご飯に隠れるのをやめて、ご飯の上に鎮座するようになったかというと、それは明治時代だった。 この頃、関東では蒲焼きを蒸すように料理法が変化していったのだが、その蒸した蒲焼きをご飯の間に挟んでしまうと、ご飯の熱で再度蒸されてしまう。これを嫌って、ご飯の上に乗せるようになったと言われている。
ちなみに、上乗せタイプは関東で始まったが、すぐには関西には伝わらなかったようだ。 なので、関東の人間が関西で上にのってないタイプを見て「うなぎが無いぞ!」と怒ったという逸話がある。 現在はご存知のように、中に隠すタイプは廃れて、全て上に乗ってくるようになった。 そのほうが見た目にも分かりやすいし、何より準備のひと手間が減るからいいのだろう。このように非常に長い時間をかけて蒲焼きからうな丼に進化した。
土用の丑の日
うなぎといえば土用の丑の日だろう。しかし、なぜ土用の丑の日にうなぎを食べるようになったのかは、実はいまいち理由が分かっていない。夏バテ防止用にあれこれを食べろという習慣は昔からあった。「そうめん」なんかもそうだ。が、その中でとりわけなぜ、うなぎだけがこんなに注目されたのかは分からない。 一般的には平賀源内がしかけたと言われているが、文献がなく確証が持てないのだ。
それはともかく、土用の丑の日にうなぎというのは、見事に定着していった。現代のバレンタイン、恵方巻と同じようなものだ。 ちなみに地方によってはうなぎではなくドジョウを食べる地域もあった。江戸時代のイクメンパパの日記「柏崎日記」(柏崎、現在の新潟県だ)のなかにも出てくる。
当所は土用中に泥鰌を喰う事に致し候(天保12年6月11日の日記)
それにしても、新しく登場したイベントが一気に全国に広がっていくというのはすごいことだ。 江戸時代の情報伝達は基本的には人の移動に頼るので、参勤交代などがあったとしても情報拡散のスピードはなかなかに早かったということだろう。
おわりに
この記事を書くために、取材のために色々なうなぎの老舗を回りたかったが、それもまだ難しい。 コロナめ。
そもそもここ数年うな丼を食べれていない。価格をみて、いつも二の足を踏んでいる。 不憫に思った誰かが僕にうなぎの出前をとってくれることを期待しよう。
【参考文献】
「すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ」,飯野亮一, 筑摩書房, 2016.
「天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼」, 飯野亮一,筑摩書房, 2019.
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著者情報

- 伊尾木将之
- 大阪出身のうさぎ好き。修士までは物理を学び、博士課程で情報系に進むも撃沈。現在はクックパッドでエンジニアをしながら、食文化を研究している。
日本家政学会 食文化研究部会の役員を務める。
2020年秋から社会人大学生(文学部)に。
本業は川崎フロンターレのサポーター。
https://github.com/kikaineko/masayuki-ioki