[江戸メシ クロニクル]江戸時代の食と子育てを探る

[江戸メシ クロニクル]江戸時代の食と子育てを探る

食や料理への「偏愛」を教えてもらうHolicClip。江戸の食文化を愛するクックパッドエンジニア・伊尾木さんによる人気コラム「江戸メシ クロニクル」です。今回は江戸の「子育てと食」について語っていただきました。
前回の記事はこちら:https://foodclip.cookpad.com/11221/

ゆるふわだった江戸時代の子育て

9月から「全ての食を江戸ご飯にする」プロジェクトを開始したが、現在も継続中だ。 脂っこいものは食べるのがしんどくなってきたし、大量の米を食べることも平気になってきた。 ずいぶんと江戸人の感覚に近づいたのではないかと思う。いい感じだ。 江戸の人は米を一日一人4.4合食べたと言われるが、ずっとデスクワークの僕はそこまではいかない。せいぜいが1.5から2合程度といったところだ。試しに3合食べてみた日もあった。少しお腹は張ったが、体をよく動かせば確かに4.4合もいけそうだなという感覚だった。こういうことを身をもって理解できるのがいい。 ちなみに、一日2合食べた日の総カロリーを計算してみたところ、1,600キロカロリー程度だった。なんというヘルシー食。この食事をもう3ヶ月近く続けている。さぞかし痩せたと思われるかもしれない。残念。大量に和菓子を食べてしまうので、総カロリーとしては以前とさほど変わらない。

さて、今回は江戸の子育てと食について見ていこうと思う。 江戸時代、いや少し前までは、子どもの死亡率は非常に高かった。現代社会の最大の恩恵の一つは医学の進歩だ。子どもがちょっと熱を出しただけで、すぐにお医者様に診てもらえて、安価に良い薬が買えるというのは、真に偉大なことだ。 では、死亡率の高さは一旦おいて、育児という点でみると、江戸時代にどんなイメージがあるだろうか? 身分制のもと厳格なしつけで、子どもは大変だったのだろうか?あるいは厳しい体罰に耐える日々だったろうか?

もちろん、そういう状況もあっただろう。しかし、江戸時代の子育ては基本的にゆるふわだった。これについては当時、日本にやってきた外国人が驚きをもって書き記している。 大英帝国の女性探検家イザベラ・バードは「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない」と書いているし、大森貝塚の発見者であるモースは「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない」と書いている。

井戸端会議で男性たちが盛り上がっている、その話を聞いてみると自分の子どもの自慢大会だった、そんな光景が江戸時代にはあったらしい(ぜひ僕も参加して、自分の5歳の子どもを自慢したい)。現代の人も十分に子煩悩だと思うが、江戸時代は時として、驚くほど子どもに寛容な部分があった。 ちなみに、当時のヨーロッパは必ずしもこのような状態ではなかった。1762年に哲学者ジャン・ジャック・ルソーが書いた「エミール」にはこんな育児場面が描かれている。

子どもを自由にしておいては、たえず見はっていなければならない。ところが、しっかりとしばりつけておけば、泣いてもかまわずに隅っこに放りだしておける(略)

ちょっとでもことが起こると、子どもは古着かなんかのように釘にひっかけられている。

これは産衣という布でぐるぐる巻きにされた赤ん坊が、壁に引っ掛けられて放置されている、というナカナカな状態を描いている。身動きもできず、泣いても誰も見に来ない。こういう育児が横行していたので、外国人は当時の日本に来て驚いたのだ。


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寺子屋の様子。子どもがあばれても師匠は怒る様子がない。これは当時の西洋では考えられない光景だった
参照:Wikipedia 寺子屋・一寸子花里「文学ばんだいの宝」

乳親、乳母、基本は共同保育

子どもが最初に口にするのは、母乳だ。授乳に関しては、現代と江戸時代では色々と異なる。まず、「乳付け」という風習があった。生後3日目に他人の乳を与えるという風習だ。生まれた子が男の子の場合は女の子を持つ母親に頼み、子が女の子の場合は男の子を持つ母親に頼んだようだ。授乳してくれる女性のことを乳親(ちおや。あるいは乳付け親)と言った。この風習は、江戸時代以前から続くもので、母親の乳がでるまでの代理授乳という側面と、共同体で保育するという意味合いがあった(ちなみに、その子が初めて授乳される際に行うものと言われているが、3日目まで赤ん坊が授乳されずに大丈夫なのだろうか?)。


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授乳する様子。当時はこのようにおおっぴらに授乳されていた
参照:国立国会図書館デジタルコレクション「紀伊國名所圖會 六之巻」


この乳親があるように、江戸時代には実親以外の親が多い。帯親、乳母、名付け親などなどだ。これは子育てが地域ぐるみが基本だったことを端的に表している。 そもそも人類の子育ては共同保育が基本だ。例えば、子どもが癇癪を起こしてギャン泣きしている時、現代人は「ご近所迷惑になる、辛い。自分たちでなんとかしないと・・」と思ってしまう。これに対して「ご近所迷惑になるけど、ああ、あそこのおばさんが来て子どもをあやしてくれないかなぁ・・」と逃げ道が用意されているのが共同保育だ。どちらもストレスは感じているだろうが、その大きさが違う。親だけでなんとかできるほど、子育ては簡単なことではない。

ただし、共同保育は、育児の面では合理的だが、逆に言えば、それ相応の「ご近所付き合い」が必要になってくる。このご近所付き合いを受け入れ可能だと思うかどうかは人によるだろう。 江戸時代のイクメン侍日記の「柏崎日記」にはこんなエピソードが出てくる。

長女の初節句はせずに、内裏でも机に並べて済まそうと思っていたが、お向かいの衆がまったく聞き入れなし。

お向かいの叔母さんにいたっては、「オレが飾ってやる!」とお向かいから雛人形をもってきた。(天保11年2月29日)

このエピソード自体は微笑ましいものだが、このレベルで何かにつけグイグイくるのだとしたら、考えものだ。あなたが子どもの初クリスマスで、ささやかなパーティーを開こうとしたら、お向かいの家の人が「七面鳥がないなんて、ありえない!」と言って、我が家におしかけて七面鳥を焼きだしたら、どう思うだろうか。これを「まぁちょっと抵抗あるけど、ありがたい」と思えるなら、あなたは江戸時代でもうまくやっていけるかもしれない。

授乳期間についても、現代と江戸時代は大きく異る。現代の日本の授乳期間は大体1歳半くらいだろう。しかし江戸時代の授乳期間は長く、大体3歳くらいまで授乳していた。時には5歳くらいまで授乳することもあったようだ。当時の育児書である「小児必用養育草」には「6歳くらいまで乳を与える人が多いが、良くないことだ」と書かれている。ここでの6歳は数え年なので、現代の年齢では5歳だ。かなり長い。何故こんなに長いかというと、授乳によって出生間隔をコントロールしようともしたからだ。授乳している間は妊娠しづらいので、それによって出生間隔をある程度あけようとしたのだ。

乳がない場合、現代では粉ミルクを利用できるが、これは江戸時代にはなかった。当時利用されていたのは「摺粉・地黄煎(すりこ・ぎょうせん)」というものだ。米をすり鉢で粉にして、湯にといて、「地黄(アカヤジオウ)」の根を煎じた汁を加え、さらに水飴で甘みをつけたものだ。あるいは、重湯などを使ったりもした。

乳がない状況というのは、母親の乳がでないのか、あるいは母親がいない状況であるが、これは当時大変な苦労だった。昼間は、共同保育の良さをいかして、他人の乳をもらいにいけるが、問題は寝しづまった夜中だ。この時に、摺粉などを使うが、それでも足りない場合は夜中であってもご近所の戸を叩いて回らなければならない。本当に辛い状況だった。

おやつが充実

江戸時代は菓子が色々発達した時代でもある。子どものおやつに関しても、団子やせんべいなど充実した時代だ。現代でもダダをこねる子にお菓子でご機嫌を伺ってしまうが、それは江戸時代も同じだった。子どもの月代を剃るのに、ぐずらないようにお菓子でなだめたりしていた。なので、当時の育児書には「ぐずったからといって、甘いものを与えると、それが習慣になるからやめよ」と書かれたりしている。そうは言っても、泣く子には勝てないのが人情だ。

さっき出てきた「柏崎日記」には、おやつとして炒り豆が頻繁に出てくる。大豆を炒っただけの簡単なおやつで、豆まきの時の鬼が痛がるアレだ。僕も現在よく作るが、食感としてはちょっと固めのポップコーンという感じで、ポリポリ食べている。タンパク質たっぷりで筋肉がしっかり付きそうな感じがしている(後は筋トレをすればいいだけだ、誰か代わりにやってくれないだろうか)。ただ、これが江戸時代のメジャーなおやつだったかまでは、残念ながら分かっていない。柏崎付近の習慣かもしれない。とはいえ、大豆はいたるところにあったし、作るのも簡単なので、江戸でも作っていた可能性はある。誰かご存知の方がいたら教えてほしい。

七五三

七五三は、今も子どもの成長を祝うイベントだ。江戸時代は「七歳までは神のうち」と言われたように、七歳まではいつ亡くなってもおかしくない時代だった。だから七五三を祝えるまで成長したことを、親たちは心から喜んだ。ちなみに、個人的な話になるが、僕も自分の子どもが1歳になった時に、心の底からホッとしたことを覚えている。それまでは、毎日何がおきるか分からないと心配でならなかった。もちろん1歳になったから安心ではないことは理解していたが、それでも「なんとかここまで頑張ってくれた!」と心から嬉しかったのだ。現代人の僕ですら、これほどなのだから、いわんや江戸時代の人をや、だ。


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江戸時代の七五三. 男の子は両親に手を引かれ、女の子は鳶の人の肩にのっている。
着物は借り物なので、汚れないように肩に乗せていた
参照:国立国会図書館デジタルコレクション「江戸名所 浅草東御門跡」


七五三は3歳の髪置、5歳の袴着、7歳の帯解などが一つにパッケージされたものだが、一般に広まったのは三代将軍家光が慶安3年(1650年)に、四男徳松の5歳の祝いをしたことがきっかけとされている。ただし、七五三という言い方が定着したのは江戸時代後期になってからだ。それまでは「髪置袴着帯解の祝い」などと呼ばれたようだ。長ったらしいから、やがて七五三と呼ばれるようになった。ちなみに「髪置(3歳)袴着(5歳)帯解(7歳)」という順序なのに、七五三は逆順なのが興味深い。

七五三の定番である千歳飴は、江戸時代の浅草から始まった。元禄・宝永年間(1688-1710年)頃に、江戸の七兵衛という飴売りが、浅草で「千歳飴」あるいは「寿命糖」というなんともおめでたい名前で飴を売り出したのが初めと言われている。飴は神社の供物でもあったので、宮参りの時に親類や知人に配った縁起菓子が、やがて七五三が派手になるに従って、千歳飴も定着していった。

今も昔も変わらない子どもへの愛おしさ

子どもを可愛がるのは、今も昔も変わらない。当時の日記を読むと自分の子どもが可愛くてしょうがない様子がよく出てきて、おもわずニンマリしてしまう。ただ、子どもと食に関してはあまり記録に残らないのが、惜しい気持ちになる。きっと当時の親も子どもの好みを気にしながら食事を用意したはずだし、子どもの好みが今と昔でどう違ったのか興味が尽きない。 個人的に、育児は関心が強い分野なので、今後また何か発見したらお伝えしたいと思っている。


【参考文献】
[1]「江戸の乳と子ども」,沢山美果子, 吉川弘文館, 2017.
[2]「江戸の躾と子育て」中江克己,祥伝社2007.
[3]「江戸の親子」, 太田素子,吉川弘文館, 2017.



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著者情報

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伊尾木将之
大阪出身のうさぎ好き。修士までは物理を学び、博士課程で情報系に進むも撃沈。現在はクックパッドでエンジニアをしながら、食文化を研究している。
日本家政学会 食文化研究部会の役員を務める。
2020年秋から社会人大学生(文学部)に。
本業は川崎フロンターレのサポーター。
https://github.com/kikaineko/masayuki-ioki