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食の偏愛コラム
[江戸メシ クロニクル]江戸時代の食と飢餓の話
食や料理への「偏愛」を教えてもらうHolicClip。江戸の食文化を愛するクックパッドエンジニア・伊尾木さんによる人気コラム「江戸メシ クロニクル」です。今回は第2回目、江戸時代の食と飢餓のお話。
前回の記事はこちら:https://foodclip.cookpad.com/1894/
はじめに
僕の今年の目標はダイエットだ。年頭に心に誓った。ただ冬は寒すぎるし、いきなり動くのも危険だなと思い、春を待っていたらコロナ禍がやってきた。そして、緊急事態宣言も解除されたから徐々に運動をと思っていたら、今度は梅雨だ。まったくもって人生は上手くいかない。
前回、江戸時代の疫病の話を書いた。あんな暗い話を書いておいて2回目の記事を書けるとは、有り難い限りだ。皆さんに感謝したい。感謝しておいて、今回も江戸時代の食と飢饉という暗い話だ。折しも、2020年7月現在、世界でバッタが大量に発生していて、世界的な食糧危機も心配されている。
人類と飢饉
江戸時代は飢饉が頻発した時代だ。先進国で飢饉をあまり心配しなくなったのは、つい最近の話でしかない。江戸時代ほど過酷でないにしろ、戦中戦後の食料不足はよく知られているだろう。そもそも飢饉は、農耕を始めてしまった人類がずっと抱えてきた問題だった。
多くの歴史家が指摘するように[1-2]、狩猟採集の時代にも当然食料不足は起きただろうが、飢饉というほど酷い状態にはならなかっただろう。食料に困れば食料のある別の土地に移動するだけだし、農耕民よりもずっと多様な食料を食べていたので、深刻に困ることはなかった。
ところが農耕を始めてしまった人類は、土地の移動が難しくなり、少数の作物に強く依存するようになった。(江戸っ子は1日に5合の白米を食べたと言われている。とんでもない米依存。まさにご飯をおかずにご飯を食べる状態だ。)
確かに農耕には大きなメリットがあり、人類に繁栄をもたらした。狩猟採集ではせいぜい100人規模の集団が限界だったが、農耕によって都市を築けるようになった。その代わりに飢饉や疫病の恐怖に怯えるようにもなった。実に皮肉な話だ。
「農耕民も食料に困ったら狩猟採集に戻ればええやないの」と思うかもしれない。僕も子どもの頃そう思っていたが、問題は人間の数が多すぎることだ。東京都民がこぞって山菜を取りに行くことを想像してみよう。うん、地獄絵図しか想像できない。また、何が食べられるのか、どうすれば食べられるのかという知識の大半が消えてしまったことも見逃せない。
ちなみにこういう皮肉は現代でもよく起きていて、「誰かと繋がっていたい」という普遍的な欲求がSNSを促進させたが、 その結果「もう連絡を取り合うのがしんどい」というSNS疲れが発生した。人類はよかれと思って始めたことで、思わぬ結果に遭遇してしまう。しかし前の時代にはもう戻れない。(一部の人はSNSを離れるだろうが、人類全体がSNSを手放すことはないだろう。)
江戸時代のダイエット事情
少し話題がそれてしまったが、さらにもうちょっと話をずらそう。 現代では飢饉どころか人々の大きな関心事はダイエットだ。では、江戸時代はどうだったのだろうか?飢饉が頻発するような時代にダイエットを考えるだろうか? 以前これについて少し論文で書いたことがある[3]。
現代ほどではないにしろ、江戸時代もダイエット意識はあった。例えば美人を指す言葉として「柳腰」という言葉があった。柳のようにほっそりした腰が良いという価値観はダイエット意識に容易に結びつくだろう。また、あまり多くはないが、いくつかの文献にもダイエットのことが少し書かれている。井原西鶴の「好色一代男」にある遊女のダイエットを見てみよう[4]。
参照:国立国会図書館デジタルコレクション:好色一代男 第三巻「廿一 恋のすて銀」
<原文> かほはゆげにむしたて、手にゆびがねをさゝせ、足にハたびをはかせながらね
させて(中略)二度のしよく物
<現代文> 顔は湯気で蒸して、指には金属の筒をはめ、足には足袋をはいて
(中略)一日に食事は2回にした
つまり指や足が太くならないようにして、食事制限をしたということだ*1。これは遊女なので、やや特殊な職業での話になる。もちろん逆に客のほうが「そういう」価値観を持っていたとも言えるだろう。では庶民はどうだったのだろうか。 ちょっと時代がずれるが、江戸時代後期の式亭三馬の「浮世風呂」をみてみよう[5]。女性2人の会話のやりとりがある。
「肥女(ふとっちょ)は沁々(しみじみ)厭だ。酢でも呑んで痩せたいよ」
「なんのまあ。肥えたが宜(ゑ)いぢや無いかいな」
庶民でもダイエット意識があったことや、酢がダイエットに効果があると思われていたことが分かる。 現代の人が「炭水化物抜きでもして、痩せたいよー」と言ってるのと何も変わらない。 会話にあるように、現代ほどダイエットを肯定していなかった可能性もあり、とても興味深い*2。とりあえず今から美味しく飲める酢を買ってこよう。
江戸時代の飢饉
やっと本題だ。ここまでで前回の半分くらいの文字量を使ってしまった。
さて、まず飢饉とはどういう状態かを抑えておこう。飢饉は、異常気象など様々な理由で農作物(特に米)が足りなくなった状況を指す。 江戸時代は小氷期の時期があったので、凶作から飢饉が起きやすい状況ではあった[7]。 しかし、異常気象だけで飢饉が起きるわけではない。 江戸時代に発展した経済社会が飢饉を大規模化させてしまった側面がある。
飢饉というのは、じわじわと状況が悪化し、凶作の翌年の米の収穫前がもっとも厳しい状況になる。(死者数でいうと、凶作の翌年の梅雨時期が非常に増える。体力が落ちた頃に疫病が流行るからだ。) この時期の最大の問題は、領内に米がまったくないことではなく、米の値段が高騰してしまうことだ。
例えば、天明の飢饉時の仙台藩の米の値段を見てみよう。天明3年(1783年)7月に、米一升が50文(1文20円程度と考えて1,000円)だった。それが翌年の6月には、330文(6,600円程度)になった。6.6倍に跳ね上がったことになる。
コロナ禍でマスクの値段がとんでもないことになったが、それが食費で起きたと思ってくれればいい。500円で買えていた弁当が、1年で3,300円になった。その弁当をこれまで通りに買うだろうか? 必要なものは食費だけではない。他にも金は必要だ。しかも、もう少し我慢すれば収穫の時期だ。あなたならどうするだろう。きっと少しずつ食費を削ることだろう。いや、買う金があるのはまだマシなほうだ。食費なので毎日消えていく。当然底が尽きる。食費が数倍になったら、貧困層には大打撃なのだ。
こうなるとまさに地獄絵図だ。まことしやかに人肉食の話だって流れるし、死んだ母親のおっぱいを吸い続ける赤ん坊の絵が残っていたりする。 この状態で、藩が何もしないわけではない。なるべく米を確保して領民に配ろうと努力する。例えば炊き出しなんかも実施しただろう。
参照:国立国会図書館デジタルコレクション:救荒孫の杖(領民に炊き出しを行っている図)
しかし、藩自体の米の確保が上手くいかない場合があった。特に全国的な飢饉の場合、幕府と藩で方針がぶつかる場合があったのだ。 幕府は江戸や大坂の大都市をなんとかせねばならんと、各地から必死に米を集める。特に江戸は人口100万の都市だ。悲しいことに食料の生産能力を持っていない。(都市とはそういうものだ。)この江戸が飢餓状態になると、本当に酷いことになるだろう。何より幕府の面目丸つぶれ、倒幕の機運だって起きかねない。だから幕府は必死になる。それが各藩の米をどんどん減らすことになる。ちなみに、江戸と大坂も米の奪い合いだ。これが背景となって大塩平八郎の乱が起きたとも言われている[2]。
また、藩は商人とも米の駆け引きをする必要があった。どういうことだろうか?ここに商人がいるとしよう。藩に多額の金を貸すくらいの、とびきりの大商人だ。藩にお金を貸すものの、なかなか返してくれない。そのくせお武家様は気位だけは高くて結構ですね。 なんて言ってると、どこからともなく「今年は凶作だ」との情報が入る。凶作になれば、次の年に米の値段が大きく上がる。藩には備蓄米もあると聞く。さて、商人としてはどうするか。そう、借金の代わりに藩の米を出すように要求するのだ。そしてそれを後で売るのだ。こうなると、藩も逆らうことが難しい。なにせ借金の負い目があるし、今まで返せてないしというわけで、藩からまたも米が消えていく。このような状況から打ちこわしや米騒動が勃発していった。
松皮餅と藁餅
飢饉時に取られる政策や民間レベルでの対策はさまざまなものがあるが、ここではどのような救荒食(きゅうこうしょく)が食べられたのか、特に「松皮餅」と「藁餅」をみてみよう。
松皮餅は松の皮を練り込んだ餅だ。松の皮といっても、硬い外樹皮ではなくその内側の白く柔らかい内樹皮を食べた。そもそも松は様々な部分が食べられることが知られており、戦国時代では籠城の際の非常食として松を植えたとも言われている[8]。
松皮餅の作り方としては、松の皮を煮て、叩いて柔らかくし、粉にして餅と混ぜるというものだ。ちなみにこれは秋田の郷土料理として今も販売されている[9]。
藁餅も救荒食としてよく登場した。何せ藁は大量にある。実際わらじ、藁の笠、藁のカゴから藁人形まで江戸時代は藁の製品で溢れている。それくらい藁は身近にあったわけだ。こんな大量にある物が食えたならと思うのが人の常だ。
幕府も「藁食えるなら最高」とばかりに藁餅を奨励していた。幕府から「藁食えるから藁食え」というお達しがくるのだから、凄い話だ。現代の政府がこんなお達しをだしたら、すさまじいバッシングの嵐になるだろう。
藁は食えるといっても、食えるようにするのは非常に大変だ。幕府のお触書によれば藁餅の作り方はこんな感じになる。
1.藁を半日水につけてアクを出す
2.砂をよく洗い落とす
3.穂は捨てる
4.細かく切り刻む
5.蒸して干す
6.炒って、臼で粉にする
7.その粉末一升と米粉2合をあわせ、水で捏ね、蒸して餅状にする
実際にこれを食べた農民は「旨くないし、口にカスが残る」とぼやいている。農民も藁でも食えというような上から目線の幕府に苛立ちを覚えるものの、実際に食えるならと食ってしまうのが悲しいところ。感情はどうあれ、この藁餅で命を繋いだ人がいたのだろう。年月が経つにつれ、作り方が入念になっていった。
ちなみにちょっと調べた範囲では、現在藁餅の市販品を見つけることはできなかった。もしかしたらビジネスチャンスかもしれない。
かてもの
飢饉のための対策として、当時非常に注目された「かてもの」を紹介しよう。
参照:国立国会図書館デジタルコレクション:かてもの
「かてもの」は江戸時代後期、米沢藩(山形県)で書かれた救荒食マニュアルだ[10]。莅戸善政(のぞきよしまさ)らが編纂し、上杉鷹山(うえすぎようざん)の命で刊行された。米沢藩はこの本のおかげで天保の大飢饉時に1人の餓死者も出さなかったと言われている。もちろんこの手の評判は話半分で聞く必要があるが、当時高く評価されたことは確かだろう。
この60ページもない薄い本は、徹底的に実用を目指して書かれた。内容としては「はすの葉」や「とちの実」など82の植物をどのようにすれば食べられるのかを紹介している。中には「ぜんまい」や「わらび」などもあるが、米沢藩では常食されていなかったのかもしれない。その他、飢饉に対して日頃からどのような準備をしておくべきなのかということが書かれている。
江戸時代、救荒食マニュアル本は多く書かれた。その中でなぜ「かてもの」は高い評価を得たのだろうか。2つの特徴から見てみよう。
徹底した実用主義
「かてもの」で紹介されている植物や食べ方は、刊行前に実際に試されている。莅戸善政が草案を書き上げた後で御側医に実際に植物を渡し、実食してもらうように頼んでいる。その医師らの意見を元に完成させているのだ。
これは刊行の時期が平常時であることも関係するだろう。救荒書の中には飢饉を察知してから書かれたものもあるが、それでは当然内容を充実させることは難しい。「かてもの」は時間的余裕がある中で書かれているので、このような入念な準備を可能にしているのだ。また領民に配布することも平常時であればこそ、しっかりできる。コロナ騒動の中でマスクを配ることが非常に難しいことをみればよく分かるだろう。
また、植物の他にイノシシなど肉食を勧めていることも大きな特徴だろう。江戸時代、一部で肉食が存在したものの、基本的には四足の肉食は忌避されるものだった。(この辺の話は面白い話が多いので、またじっくりしたい。)特に、藩が公式に刊行物で推奨されることは珍しいと言えるだろう。つまりは建前よりも実利を取ったのだ。これには莅戸善政や上杉鷹山らの強い意思を感じる。
農民への配慮
「かてもの」というのは、糅飯(かてめし)などとも言われるが、色々なものを飯とともに煮炊きして食べるものを表した米沢藩の方言だ。方言が本のタイトルになっているのが面白い。例えば、大阪で「飴」を「あめちゃん」といったりする。(ほら、大阪のおばちゃんがいつもカバンに忍ばせているアレだ。)緊急時に食べるものとして「飴」を推奨したいときに、大阪府が公式に出した本のタイトルが「あめちゃん」だったようなものだ。現代の行政と当時の藩では立場が違うが、藩側が領民に寄り添おうとしたことは確かだろう*3。
江戸時代の支配者層(つまりは武士)の農民観というのは、あまり良いものではない。例えば慶安二年(1649年)2月26日の触書には 「百姓は分別もなく末の考えもなきものに候」 と書かれており、それゆえ米ではなく雑穀を食うように指導している[11]。 救荒書にも「愚民は」などとよく書かれてることがあり、このような視線が江戸時代の基本的な姿勢だ。しかし、「かてもの」の中ではそのような記述はなく、一貫して領民への配慮、老人や弱者への思いやりがみられる。
また、使用文字も平仮名が多用されている印象を受ける。当時の感覚としては漢字がもっとも正式な文字で、ついでカタカナ、そして平仮名は庶民の文字という感覚だ。なので、藩が出す文章は基本的に漢字で書かれることが多い。江戸時代、識字率は高かったが漢字まですらすら読める人はやはり限られていた。そのため、少しでも領民が読みやすいように平仮名を多用し、難しい漢字にはルビをふったのだろう。
参照:国立国会図書館デジタルコレクション:かてもの
1,575冊版行され、1,392冊を農村に配布したということも農民を重視した証しだろう。当時の人口比でいうと、農民51人あたりに1冊、町人200人あたりに1冊の計算になる。
現代への影響
「かてもの」の中で紹介されている食で、現代に残っているものは、ざっと調べた限りでは見つからなかった*4。しかし、この薄い実用書は現代でも何度か復刻されている。救荒食の知識を求めてというのもあるだろうが、精神性を求めてのことが多いだろう。
結局この本が言いたいのは、日頃からの準備と徹底的な実用主義が危機を回避し、そして施策を実行する政体側に民への配慮が重要なのだということだ。
おわりに
結局前回の倍近い文字量になってしまった。食と飢饉の関係が深いというのもあるが、やはり飢饉を簡単に語ることは難しい。さて、次回はどうしようか。もしまた次があるならば、今度こそお気楽な話を書きたい。
注釈
*1 一日三食が普及したのが元禄期と言われているので、ちょうど「好色一代男」が書かれた時期にあたる。
*2 藤田智子氏の研究によれば、ダイエットが大きく注目されるようになるのは1980年代以降らしい[6]。
*3 現代のように、テレビやラジオですぐに標準語が聞けるような時代でもなく、領民の周りには方言しかない。だからすぐに理解できる方言を使用したのだろう。
*4 「かてもの」の中では塩分摂取がことさらに強調されている。これは塩の殺菌効果の期待や塩分不足を恐れてのことだが、減塩志向の現代とは真逆だ。
参考文献
[1] ユヴァル・ノア・ハラリ, サピエンス全史, 河出書房新社, 2016.
[2] 菊池勇夫, 飢えと食の日本史, 吉川弘文館, 2019.
[3] 伊尾木将之/宇都宮由佳「レシピ検索データから見えるハレからケへの移行期:正月からの反動を中心に」会誌食文化研究(15), 2019.
[4] 井原西鶴, 好色一代男. 巻3, 川崎七郎兵衛, 1684.
[5] 式亭三馬, 浮世風呂, 金桜堂等, 1908.
[6] 藤田智子, ダイエットブームの実態と背景-女性雑誌を通しての考察-, 生活社会科学研究 第7号, 2000.
[7] 山川修治, 小氷期の自然災害と気候変動, 地学雑誌 102巻2号, 1993.
[8] https://toyokeizai.net/articles/-/63918
[9] http://common3.pref.akita.lg.jp/aktshoku/100sen/index.html?article_id=125
[10] 高垣順子, 米澤藩刊行の救荒書『かてもの』をたずねる, 歴史春秋出版, 2010.
[11] 原田信男, 江戸の料理史, 中公新書, 1989.
著者情報

- 伊尾木将之
- 大阪出身のうさぎ好き。修士までは物理を学び、博士課程で情報系に進むも撃沈。現在はクックパッドでエンジニアをしながら、食文化を研究している。
日本家政学会 食文化研究部会の役員を務める。
2020年秋から社会人大学生(文学部)に。
本業は川崎フロンターレのサポーター。
https://github.com/kikaineko/masayuki-ioki