[江戸メシ クロニクル]江戸時代の正月料理

[江戸メシ クロニクル]江戸時代の正月料理

食や料理への「偏愛」を教えてもらうHolicClip。江戸の食文化を愛するクックパッドエンジニア・伊尾木さんによる人気コラム「江戸メシ クロニクル」です。今回は、江戸時代の正月料理について語っていただきました。
前回の記事はこちら:https://foodclip.cookpad.com/5239/

江戸時代の正月

2020年は実にイレギュラーな年だったが、僕の応援するサッカークラブもイレギュラーだった。 歴史に残る圧倒的な強さでJリーグを制覇した。このコロナ禍で、本当に心躍る試合を何度も見せてもらえた。 感謝しかないし、心の底から皆さんも僕のクラブを応援すると良いと思う。

ちなみにだが、江戸文化をより良く理解するために1週間くらい前からちょんまげにしている。もちろん頭頂部を剃る月代(さかやき)を作っている。 やはり体験の力は凄く、日々色々な気づきがある。本当に学びが多いから皆さんもやってみるといい。

意外にも(?)街を歩いていてもあまり反応されない。 もちろんたまに二度見されることはあるが、基本的には気づかない人のほうが多い。 他人のちょんまげよりも、自分のスマホを見ることに忙しいからだ。(会社のビルのガードマンは何度も僕をジロジロ見てきた。ちょんまげ男を怪しんだのだろう。正しい。しっかり仕事をなさっている)

さて、今回は江戸の正月について書いていこう。現代と江戸時代の正月も、これまた随分と異なっているが、それでも結構江戸時代の名残が残っている。「黒豆」や「ごまめ(田作り)」などの「おせち」は江戸時代からの伝統だ。
まず正月とは何だろうか?字義的な意味で言えば、正月は旧暦の1月のことを指す。つまり1月1日から2月までの1ヶ月間が正月だ。だから仕事初めに「あー正月気分抜けない〜」なんて言ったりするが、それは正しい。まだ正月なのだから。

とはいえ、実際に正月を祝うことを1ヶ月間もやっているわけではない。現代では正月はせいぜいが3日程度(状況によっては1日だけ)の行事になっているが、江戸時代は1ヶ月間まではないにしても、現代よりもずっと長い。地域差が大きいので一概には言えないが、正月にはさまざまな行事がある。7日の人日(七草の日だ)、11日の鏡開き、15日の小正月、20日の二十日正月。日が経つにつれて、正月テンションもさがってくるが、それでも感覚としては正月はずっと長いものだった。特に15日の小正月(旧暦の15日は満月にあたる)は重要で、1月1日からずっと働いた女性のための正月という位置づけだ。だから女正月とも言われた。元日からの正月(大正月とか、男正月とか言われる)は女性は大忙しなのだ。

おせちは主婦が休むため?

え、ちょっとまって欲しいって? 確かに「おせちは主婦がゆっくり正月を休むためのもの」と言われることがある。それを信じるなら、正月は女性もゆっくり休んでいるはずだ。確かに江戸時代の庶民の1月1日の元日は寝正月だ。しかし、基本的に正月はとても忙しい行事だ。特にお武家様は大変な忙しさになる。とてもゆっくり休んでなどいられない。

何が忙しいかというと、年始の挨拶廻りだ。挨拶廻りで忙しいの?と疑問に思った読者の方は、あなたの想像の10倍以上の挨拶廻りを想像するとちょうどいいだろう。例えば、桑名藩の下級武士の日記「桑名日記」の天保11年(1840年)1月4日の記述を見てみると、

「年始の人も大そう少うなる。それでも二三十人はくる」

と書かれている。「大そう少う」なって20−30人なので、それまではもっともっと多かったようだ。挨拶廻りだからといって、本当に挨拶だけで終わるわけはない。必ず「まぁまぁ上がっていってください」となって、食べ物を出したりお酒を出したりする。おせち料理はこのときにも出される。

あなたの家に、1日に20−30人やってくることを想像してみよう。僕なら居留守を決めこんで、誰も入れたくない人数だ。例年こんな調子だから、桑名日記の著者・渡部じいじは、毎年、知り合いにお手伝いを頼んでいる。さらに、弘化5年(1848年)1月1日では、前年の12月に藩の中枢の側室・至誠院が逝去したことで、その年の正月は年始廻りがなくなった*1。それを受けて、渡部じいじは、

「誠に淋しき正月也。家内は取次なく仕合せじやと申也」

と書いている。年始の客が誰もこなくて淋しいけど、奥さんは幸せと言っている。それほど正月は忙しかったのだ。もちろん、渡部じいじが社交的だったからという可能性はある。が、同時代の他の日記を見ても年始の挨拶はかなり頻繁におこなわれていることが分かる。また、当時の川柳に

「年礼を喰ふやりくりをして歩き」

という歌があり、1日中挨拶廻りに出歩いていたことが分かる。


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年始挨拶の様子
参照:日用惣菜俎不時珍客即席庖丁/国文学研究資料館
CC BY-SA 4.0を加工


というわけで、おせちは主婦が休むためというよりは、主に年始客にさっと出せるようにするものだったのだ。これは現代でもある部分似た状況じゃないかと思う。親戚が集まってパーティーをする場合にも、食事の用意をするのはまだまだ主婦がメインの場合が多いだろう。

加えて言うなら、実は年始客が多かったのは江戸時代だけではない。つい最近、戦後辺りまでは年始客が非常に多かった。それが高度成長期を経て、徐々に変化していったのだ。それでも1970年の雑誌「主婦の友」では「新年のしきたりとマナー」という記事で、挨拶した先が留守ならポストに名刺を入れていけと書かれている。やはり年始挨拶が重要だったのだ。近年は親戚への挨拶はあるかもしれないが、知人、会社仲間への挨拶廻りはほとんど無くなった。まぁその分、気楽ではある。

江戸時代のおせち

では、江戸時代のおせちの中身はどういうものだったのかというと、これまた細かく見ると地域差がとても凄いので、ひとことでは言えないが、基本のおせち(いわゆる祝い肴三種とか)に限ると、これは現代とさして変わらない。「黒豆」「ごまめ(田作り)」「たたき牛蒡」あるいは「数の子」だ。

現在の黒豆は甘いものがほとんどだが、当時は醤油味のものもあったらしい。おせちは基本的に酒のつまみなのだから、どちらかというと醤油味のほうが自然かもしれない。明治に入って完全に砂糖味に駆逐されてしまったようだ。食べ物は時代と共に甘く、柔らかく変化していくのだ。

ごまめ(田作り)は、カタクチイワシを甘く煮詰めたアレだ。ごまめという言い方は関西のもので、関東では田作りという。僕は大阪出身なのだが、ごまめは正月に限らず、普段からよく食べていて、正月も「ごまめ」として出ていた。ところが、だ。数年前の正月に大阪に帰ったら、なんとごまめが「田作り」という名前で売られていた。えらいびっくりして、お店の人に聞いてみたら「ごまめと一緒かどうかよう分かりませんねん」やって。どうやら東京の田作りが正月の商品としてやってきて、「ごまめ」を追いやってもうたらしい。そもそもおんなじもんやし、関西人のアレからしたら「ごまめ」で押し通して欲しいところやけど、商品だけがやってくるとこうなるんやね。難しいところやでぇ、ほんま。

あ、つい関西弁に戻ってしまった。関西で「ごまめ」というのは「小さい」とか「つまらないもの」という意味合いがあるので *2、そういうイメージも関係しているのかもしれない。

そんなつまらないものが何故おせちになったかというと、京都御所が衰退しているときにお頭付きの一番安い魚として正月に供されたのがきっかけと言われている[1]。なんとも世知辛い話だ。

大量のモチ消費

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(餅つきの様子)
参照:国立国会図書館デジタルコレクション 十二月之内 師走餅つき


おせち以上に主要な食べ物は、なんと言ってもモチだ。雑煮にも入れるし、色々調理しても食べる。現代も正月にモチを食べるがさほど多くはない(普段よりは多いだろうが)。ちなみに現代はどれくらいかというと、ざっと推定して1家族800g程度、切り餅にして16切れ程度だ *3。1家族3人なら、一人5切れ程度を食べていることになる。

江戸時代はどれくらい食べていたのだろうか?正確なデータは持ち合わせていないが、当時の日記などから見ていこう。先の桑名日記の対となる日記に柏崎日記があるが(渡部じいじの義理の息子、渡部パパが書いた日記)、この天保十四年(1843年)1月1日にこう書いてある。

「雑煮私六つ、お六(注:子どもの名前)二つ、おさと三つ締めて十一切なり。品川にては十四朗ひとりでも二十切も給べられ候よし」

少し分かりにくいが現代語にすればこうなる。

「雑煮で私はお餅を6つ入れました。子どものおろく(3歳)は2つ、お手伝いのおさとは3つ入れて、全部で11切れ食べました。品川家の十四朗はひとりで、20切れも食べたそうです」

渡部パパの奥さん(渡部ママ)は病気なので、モチは食べなかったようだし、おろくもおさともまだ子どもなので多くは食べていないが、それでも現在のモチ消費量の半分以上を元日の雑煮で消費していることが分かる。(1切れのサイズが現代と同程度と仮定してだが)しかも、品川家の十四朗君は20切れも食べたらしい。すごい量だ。渡部パパは毎年こまめに雑煮のモチの数を記録しているが、大体6つくらい食べていた。これが正月の間、しばらく続くのだ。

モチの大量消費は江戸時代に限った話ではない。例えば明治43年(1910年)の「ある商家の若妻の日記[3]」という日記の1月7日には、こうある。

「おもち十、食べました。(中略)二十人ニて、おもちの数二百三十五とは、実にをどろきました」

これまた凄い量だ。こちらの日記の著者は若妻なのだが、一人で10切れ食べている。さらに20人のお客さんが来て、おもち235個消費したらしい。

もっと凄いのは、昭和3年(1928年)の雑誌「主婦の友」のお正月の準備にための記事だ。

「新年のお餅は、ぢき黴(か)びるし、それにあなた方お二人きりですから、一斗もお搗きになったら沢山でせう」

なんと1斗!
1斗とは、つまり100合だ。カロリーにして50,260kカロリー、約426切れの量だ。「すぐにカビちゃうから」これくらいの量で十分よと言っているのだ。来客もあっての量だとは思うが、この半分を二人で食べたとしても1人100切れ(約11,800カロリー)だ。「正月食べ過ぎたわ、ダイエットしなきゃ」などと言ってられる量ではない。

おそらく正月のモチの大量消費は、江戸時代から戦後あたりまで続いていたと思われる。それが、これまた高度成長期とともに少なくなっていったようだ。

正月料理に飽きたのか?

ここまで見てきたように、正月は年始の挨拶で各家庭を訪問し、そこでおせちを食べる。さらに大量のモチを食べる。つまり正月の食事は毎度同じようなものばかりを食べていることになる。

さてそうすると、人間どういう反応を起こすかというと、飽きが来るのだ。しかし、正月は特別な行事だし、特別な食べ物が出る。そもそもこんなご馳走を食べる機会はそうそうない。そんな状況で飽きなど来るのだろうか?

これには明確な解答がある。先の柏崎日記の弘化3年(1846年)1月5日の日記に

「馳走にも給べあき、実は難有迷惑の様子也」

と書かれている。どこの家へ挨拶に行っても同じようなご馳走ばかりで、もはや「ありがた迷惑」のようだっと言っているのだ。つまり、飽きているということだ。 このことは川柳でもいろいろ歌われていて

「三日喰ふ雑煮で知れる飯の恩」 とか「飯は能い物と気の付く松の内」

と歌われている。いずれも雑煮やおせち料理は飽きるのに、「ご飯」は毎日食べても飽きないのはすごいなっ、という歌だ。やはり江戸の人も正月料理に飽きてしまうのだ。なんら現代人と変わらない。この辺が人間の本質なのだろう。

ちなみに、正月終わりにはクックパッドで「カレー」がとてもよく検索される[4]。正月とはまったく異なる味付けを求めてのことだろうし、1976年以降の年末年始に「おせちもいいけどカレーもね!」というCMが放送されたことが影響しているのだろう。

おわりに

正月ネタは論文を書くために何度か調査しているので、ついつい江戸時代以外のことも書いてしまった。もっと他にもいろいろネタがあるが、それはまた別の機会にしておこう。(その機会は、あるのだろうか?)

今年の年末年始はまた特別なものになるだろうが、どうぞ皆さんよいお年を。


注釈
*1 同じく桑名日記に書かれていて面白いのが、藩のお偉方は2,3日、下っ端は1日、月代(ちょんまげのときの頭のハゲ部分)を剃ってはいけないというお達しが出たことだ。逆にいうと月代は毎日剃ることが基本だったのだ。自分がちょんまげだから、ついついこういうことに反応してしまう。
*2 子どもの遊びで小さい子を特別扱いする際に、その子を「ごまめ」と言っていた。
*3 平成25年12月のモチの月間支出が1,074円[2]で、市販されている切り餅1キロが大体1,000円。12月のこの支出のうち、8割が正月三が日に消費されるとすると、およそ800グラムが正月分になる。

参考文献
[1] 松下幸子, 祝いの食文化, 東京美術, 1991.
[2] https://www.stat.go.jp/data/kakei/tsushin/pdf/27_1.pdf, 2020/12/22 閲覧.
[3] 中野万亀子, ある商家の若妻の日記, 新曜社, 1981.
[4] 伊尾木将之/宇都宮由佳, 「レシピ検索データから見える ハレからケへの移行期 : 正月からの反動を中心に」, 会誌食文化研究(15), 2019.





著者情報

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伊尾木将之
大阪出身のうさぎ好き。修士までは物理を学び、博士課程で情報系に進むも撃沈。現在はクックパッドでエンジニアをしながら、食文化を研究している。
日本家政学会 食文化研究部会の役員を務める。
2020年秋から社会人大学生(文学部)に。
本業は川崎フロンターレのサポーター。
https://github.com/kikaineko/masayuki-ioki